ウーバーイーツの星

昨日、初めてUber EATSを利用した。

アプリ自体はかなり前からDLしていたのだけど、決済エラーだの認証エラーだのにぶつかりまくっていた。サポートセンターへの問い合わせを繰り返して、やっと使えるようになってからも、なんか気分じゃないなあと思ったりして。とにかく、やっと初めての注文をした。

 

頼んだ天丼は、自分がお店まで往復したとするにほぼ同じくらいのタイムで、普通のお兄ちゃんの手によって、玄関に届いた。アプリで選んだトッピングもちゃんと反映されていて、移動時間相応に人肌の温度になっていて、なんというか、それはとても「普通」だった。いい意味で普通の、お持ち帰り弁当だ。今までデリバリーといえばピザや寿司で、だからなのかデリバリーにどこか特別感を感じていたけれど、これは違う。商品代にプラスして、配送料で外に出なくていい権利を買っただけの感覚だった。

 

寝る1時間前に食べるには余りにもハイカロリーなそれの、罪悪感を楽しみつつ開封していると、アプリから「今の配達を評価しましょう」と通知が届く。注文に関して5段階評価で、配達員とお店に対してフィードバックができるようだった。箸を進めながら、この数十分を思い返してみる。新しいサービスを利用した初日の感想としては、本当に「普通」だったのだ(もちろん、それが十分幸運であり贅沢であることは分かっているつもりだったのだが)。よって私は、この普通の先にあるかもしれない「予想を超えた良いサービス」を期待するともなしに期待して、その分の星1つが入るスペースを残し、星4つをタップした。

 ★★★★☆


すると、その下にすぐ

「どのような点を改善できれば、より高い評価につながりますか?」

というメッセージが表示され、その回答例が提示された。「遅すぎる」「包装が不適切だった」「あまり美味しくなかった」・・・

提示された選択肢には自分の感想はどれも当てはまらず、そのことに狼狽えた。

 

自分は一連のサービスにおいて、一つも不満を感じてはいないのだ。白く残した最後の星には、自分でも想像できない、いわばサプライズのレベルのサービスを求めていたのだった。しかし、それは一体何だろうか? 何をしたら、自分はこの最後の星を塗ってやろうと思うのだろうか? そしてそれは、時給で働く人間が駅前で作って、時給で働く人間が届けてくれる、ごく庶民的な夜食に対して求めるべきものなのか?

 

リッツ・カールトンの従業員には一人につき2000ドルの決裁権がある、というは、顧客体験を語るビジネス書でよく見るエピソードだ。一流ホテルのホテルマンである矜持、一流の顧客を相手にしてきた経験、そして20万円もの自由に使えるお金があれば、きっと想像を超えたサービスも飛び出すことだろう。私が無意識に求めていたのは、そういうものではなかったか?

 

「サービス」を「無料」という意味で使う国らしい国民性を自分の内面に感じ、反省しつつ、5つ目の星を押した。

★★★★★

やっと欠けることなく全員揃った星たちは、満足げな金色に変わった。

 

最近、上手くいかずに落ち込んでいるとき、人から

『満点からの減点方式で考えるのは、よくないよ。』

と言われることが多かった。

そして自分は、そのようなアドバイスを貰っても、

「だって、加点になるようなことは何もできていない。

 だから、減点にしかならないじゃないか。日々、減点ばかりなんだ。」

と思って悶々としていた。

 

そのときの自分が「満点」としていたのは、何だったのか。自分でも想像もつかない、望月のように欠けたることもなき自分を100%にして落ち込んで、何になるというのだろうか。★★★★★の私は、どんな姿だろうか。

そんなことを考えさせられた、夜食だった。

 

 

ウーバーイーツの星。おわり。